小鼓草子2020

小鼓方観世流能楽師岡本はる奈のブログです。舞台・ワークショップ・稽古場案内と日々の出来事など。横浜、相模大野、東京杉並区にて小鼓指導しております。フランス語版ブログhttps://notesdunkotsuzumi.blogspot.com/

background-size: cover; height: 75px;

ふわり。装束は香る

 今日から何度目かの緊急事態宣言。そうでなくても舞台が少ないですが、今年も長めの夏休みとなりそうです。

 舞台の休みが続いた去年の夏頃に書いた文章を見つけました。

師匠の手伝いで楽屋に行くこともなく、オリンピックも延期になって…という中で書いたのでなかなか感傷的です。

 2020年の舞台の香り、とでもいうことでしょうか。あの頃は今年もこんな状況だと思っていたかなあ。

 

・2020年8月 

 「8月の昼下がり。銀座のビルの地下にある能楽堂の楽屋は静まり返っている。

あと5分で舞台が始まる。紋付き袴姿で私はひんやりとした廊下をそろそろと歩いていき、幕の裏にたどりついた。厚い絹の能装束をつけたシテが一人鏡の前に座っている。

 鼓の師匠の手伝いで、楽屋に来たのはひさしぶりだった。本当なら、いまごろ東京はオリンピックで賑わっていたことだろう。

開始時刻となりベルがなる。ずっとつけていたマスクを演者たちがいっせいに外した。静かに幕が開く。私は切戸口をくぐり舞台に出ると師匠の後ろに座った。

観客はほとんどいない。檜の板を照らす灯りの他はすべてが闇に沈んでいる。

笛の音が舞台の開始をつげ、大小の鼓と謡がゆったりと物語を開いた。舞台で演者が動き、装束の絹糸がキラキラと反射した。

 古い松が描かれた板の前で、息を殺して私は座っていた。心の中で自分も鼓を打ちながら。外はうだるような暑さなのに、床から冷気が上がってくる。ここで正座をするのは何ヶ月ぶりだろう。久しぶりの正座は、立てなくなりそうで少し怖い。

 ライトの下で舞い始めたシテが重い袖を振った時、着物に炊き込められた香りが私の鼻に届いた。何年も何十年も、虫干しのたびに焚きしめられ、錦糸に閉じ込められた薫衣香の薫り。それは甘く、わずかに辛く、やさしかった。

 装束の香りに夏の思い出が蘇る。汗をかきながらの夏の虫干し。古都の稽古会、汗の浴衣と古い木の床。薪能が行われた山奥の神社のヤブ蚊は強烈だった。月の明かりに篝火が燃え、鼓が響いた神宮の夜。楽屋でおしゃべりをしていた、今は故人となった先生たち。

太鼓が最後のバチを打ち、物語は唐突に閉じた。私はゆっくり立ち上がって切戸を出ると、マスクで再び口を覆った。舞台が終われば現実が戻ってくる。それでもあの香りを思い出し、大きく息を吸い込んだ。私の舞台はまだまだ先だ。けれどもその時は、必ず来る。」

 

今年は東西合同研究発表会は催されるそうなので、古都の夏を訪れることができそうです。