〜26 最後の1年〜
研修6年目の最後の年。研修生男子控室は静まり返り、一人で稽古の準備や片付けをする日々。この年、ご縁があってカルチャースクールでの小鼓教室の指導をさせていただくことになりました。
稽古は月に数回、電車で30分ほどのカルチャースクールまで着物と鼓を持って通い、数名の受講生の人たちに鼓の持ち方や打ち方を教えるところから始まり、それから数年間そのカルチャースクールが閉鎖されるまで小鼓教室を続けた中で多くの発見がありました。
一番の収穫は鼓をお稽古する人たちの「小鼓って楽しい!」という声に触れたこと。それまで囃子の稽古も小鼓の稽古も苦しくて苦しくて、激しく怒られることや舞台で失敗して泣きたくなること(実際に地裏でこっそり泣いたことあり)しかイメージにない、小鼓という楽器をそんなにも楽しく思う人がいるなんて!と本気で驚きました。
また自分が教える側になることで、それまで分からなかった先生方の苦労が少しだけわかったり。丁寧に説明しているつもりで謡や小鼓について解説し始めた途端「すみません、何のことかさっぱり」と言われて稽古を受け始めた頃の自分を思い出しました。
あの頃、先生たちの話をわからないまま聞いていたけれどこういうことか!と、どれだけ丁寧に解説してくれていたのかが今更わかった。
さて、この年の6月から今までの「能楽研鑽会」は「青翔会」として有料公演となり、その第二回の10月公演では「乱」を打たせていただきました。
「乱」や「石橋」といった特別な曲を打つことを「披く」と言います。研修期間に打ったのだから、正式な披きとするのは微妙なところではありますがそれでもそういった特別な曲を打たせていただくのは嬉しく、不器用な部分を大鼓の講師だった國川純先生がうまく拾ってくださってどうにか役を務めることができました。
普段の黒紋付き袴ではなく、裃(かみしも)を身につけて能を打ったのもこの時が初めて。なぜか付け終わった途端に「ぶふふっ」とどなたか先生に笑われた記憶があります(どうやら思った以上に、「男」らしかったらしい)。
研修の期間は次の年の3月いっぱいまで。最後の修了公演は狂言は「水汲」能は「小鍛冶」と「石橋(半能)」、私の役は「石橋」の小鼓。長いと思っていた六年間はもうあと数ヶ月を数えるまでになっていました。