〜20 「追加」と初能〜
緊急時に芸術ができることはなにか?そもそも芸術の存在意義とは?
地震の後も、そして去年からのコロナ禍でも考え続けていることです。
「生きるのに精一杯の人たちがいるのに、芸術活動を行う事自体が浮かれている」と非難されることもあります。
でも…人はパンのみで生きるにあらず、とも思うのです。
2010年3月14日、大地震のあとの土日も余震が続く中でむかえた月曜日の能楽研鑽会では楽屋の電気が半分だけ点いていました。
翌日以降に始まる都内の計画停電に向けて、今から心構えと節電を…という能楽堂の意向だったと思います。
どの部屋でも、言葉少なに研修生や能楽師の先生がたが座っていました。囃子方の楽屋では、誰かがその空気に耐えかねて「少しの間だから電気をもう少し明るくしよう」と言ったことを覚えています。
舞囃子と狂言の後の能「田村」での小鼓が私の役です。最後の能が終わった後に「附祝言」として謡われる高砂や猩々の一節は急遽、大震災の被災者追悼ということで「追加」に変更されました。
「追加」は融や江口の一節を謡うことが多いですが、大抵はどなたかの追悼公演や偲ぶ会でしか謡いません。
そうして初めて国立能楽堂の長い橋掛かりを歩き、小鼓の場所について床几に座った時私の目に見えたのは、正面に固まるように座っている数十人の観客の皆さんでした。
全部で620席あまりある能楽堂の、空席のほうが圧倒的に目立つその舞台で打った「田村」の能のことは今でもよく思い出します。
外では不安が渦巻いていても、舞台の上は能の世界。千駄ヶ谷の檜舞台は春の古都の清水寺となり、咲き誇る夜桜が謡と囃子で表わされます(表せたかどうかは、わかりませんが)。
おシテを舞われた坂口貴信さんが、同期の研修生と一緒に「春宵一刻」と謡った時、ライトに照らされた舞台には本当に桜が舞うようでした。
春宵一刻値千金
花有清香月有陰
花管楼台声細々
鞦韆院落夜沈沈
能が終わって帰り道、舞台を観に来てくれていた、高校時代の友人からのメールが入っていることに気がつきました。
「地震の後は不安もあって心がずっと落ち着かなかったけれど、能を見ることで地震以来初めて安らいだ気持ちになりました」と書いてありました。