〜19 東日本大震災〜
3月11日の金曜日。その日私は午後稽古があるので、終わりしだい渋谷の観世能楽堂に来るように先生から言われていました。15時頃から能の会があるので、先生の役が終わったら楽屋で着物をたたんだり、道具の片付けを手伝うためです。翌日の土曜日は楽屋働きがあり、週が明けた月曜日はいよいよ自分の舞台。国立能楽堂の能楽研鑽会にて「田村」の初能です。
14時半すぎ、国立能楽堂2階での大鼓のお稽古が少し早めに始まって、他の研修生がお稽古を受けている間に着替えや稽古道具をおいていた研修生控室で畳の上に座り、1人で予習をしていた時。
あれ?地震?
ガタガタという音と共に能楽堂全体が揺れて、覚えかけの手附をもったまま顔上げた次の瞬間、激しい揺れと共に、並んでいたロッカーの扉がバシン!!バシン!!とはじけるように一斉に開きました。
控室の中で手元にあった座布団をかぶってうずくまり、長く続いた揺れが一度おさまったので廊下に出ると、他の稽古場や事務室からも次々と人が出てきたところでした。
事務室の横の控室で誰かがつけたテレビから、コンビナートが炎を上げる映像が見えて…防災ヘルメットを職員さんたちがかぶったりしていた時に、再び大きな揺れが起こり「外に出よう!」とてんでに階段を駆け下りて能楽堂の前庭に降りていきました。私も手にかかえた座布団を頭にもう一度乗せて、稽古着のまま皆の後をついていきました。
出てみると、前庭には多くの人が集まっていました。一階の本舞台では申合せの最中だったようで着物姿の能楽師が大勢と、私のように2階の稽古場に来ていた人たち、それに能楽堂の職員のみなさんでした。
見上げると、ヘリコプターがばたばたと飛んでいて、能楽堂の近くの電柱がかたむいているの見つけて誰かが
「あれは地震のせいかねえ」
と聞くともなしに言っています。そうして小声で話しながら、みんなしばらくその場に立ちすくんでいました。
3月の午後のこと、外で立っているうちにだんだん寒くなってきたことと、中庭では情報があまりにも入らないということで、一度建物の中にもどったのはかなり時間がたってからだったと思います。
順番に事務所の電話を借りて、大先生のお宅に何度もかけて無事を確認し、その日の稽古は中止になったので着替えて観世能楽堂まで行ってみることに。この日は能楽堂にそのまま泊まった人もいたようです。
その頃、ときどき腰痛に悩んでいた私はヒールのついた靴がつらくなった時に備えてロッカーにスニーカーをいれてありました。普段履いているパンプスからそのスニーカーに履き替えて渋谷の松濤まで歩いていくと、観世能楽堂でも公演に来た人たちが帰れなくなったということでその夜の対応にてんやわんやだったようです。出演した能楽師の先生たちは帰る準備を終えたところで、自分の先生の車に乗せてもらってどうにか自宅に戻ったときにはどの道も大混乱で多くの人が帰宅するために歩いていました。
続く土曜日は舞台の手伝いをしたりしてすごしたものの、コンビニやスーパーの品物が一気になくなっているのをみたり、メールでデマがまわってきたり、なによりもテレビに映る、津波のあまりの映像に現実とは思えないような感覚のまま、月曜日を迎えました。